英語を勉強しようと思って本屋さんへ行くと、英語関連の参考書がありすぎてどれが良いかわからないという人もいるでしょう。
そんな人に、私がこれまで読んできた参考書の中から絶対に役立つものを厳選してご紹介します。
続・日本人の英語
前回紹介した【おすすめ参考書】#0001『日本人の英語』の待望の続編です。
初版は1990年9月なので、1988年2月に出た『日本人の英語』から約2年半後ということになります。
私個人的には、衝撃度こそ『日本人の英語』にはかないませんが、理解度をより一層深いものにする上で大いに助けられたように感じています。
この本はなんといっても映画や小説などからの例が本当に豊富に挙げられており(ときには写真付き)、単なる文法法則を説明するのではなく、生き生きとした本物の言葉として英語をとらえることができるようにという著者の配慮がひしひしと感じられます。
“meadow”という名詞がベストワンくらいではないかと思う
前著『日本人の英語』が文法の解説を中心として幅広く種々の文法を取り上げていたのに対し、今回は著者が直面したり興味を惹かれたりした事柄を中心に書かれています。
良くも悪くも徒然なるまま、という感じがするので、ピシっと整理された参考書をイメージすると物足りなさを感じるかもしれません。
しかし、表面的な知識ではなく、個人としてのアメリカ人の感覚や視点を知ることで推察しうる、英語の根底にある何かを掴もうとするなら、これ以上の良書は存在しないと言ってもいいかもしれません。
たとえば次のような一節は、一般的な参考書では決して見ることはないでしょう。
英語の美しい言葉の中で,”meadow”という名詞がベストワンくらいではないかと思う.和訳されると,よく「草地」などと,とくに美しくは思えないような日本語になってしまうが,英語としてのmeadowのイメージは,鬱蒼とした森の中に,樹木の生えていない,明るい空間がある.そこにはいろんな種類の草もあれば,野の花もあちこち咲いている.土はやわらかそうで,ところどころ水のせせらぎが聞こえてくる.その平穏の中に暮らしている小鳥たちのところに,仔鹿も遊びにくる.よく見ると,バンビだ.それが”meadow”のイメージである.
この本は単語帳ではないので、この調子で単語のイメージをひたすら語ってくれるわけではありません。
これはあくまでも、かたい・やわらかいといった単語の響きについての章の冒頭部分からの引用です。
英単語には大きく2つの由来があり、アングロサクソン系は「人間的で、馴染みやすい」と感じ、ラテン系は「どうしても何か機械的に作り上げられたような印象を受ける」と著者は言います。
日本語にも和語・漢語の区別があるように、英語にもアングロサクソン・ラテンの区別があり、それらには共通して人間的・機械的イメージ(やわらかい・かたい)が存在するということです。
こういったことはテストを通して学習するような事柄ではないため、試験勉強しかしてこなかった人には興味深い内容だと思います(私自身も含むほとんどの日本人にとっては「環境が許さなかった」が正しいでしょうが)。
ところで、言葉のかたさ・やわらかさももちろん興味深いですが、上の引用のような調子で、いろいろな単語のイメージを語った単語帳(『マーク・ピーターセンのイメージ単語帳』みたいなタイトルの本)があったらぜひ読みたいと個人的には思っています。
人間くさい表現
かたい・やわらかいの議論で面白い具体例を紹介します。
たとえば,「再考する」という日本語を和英辞典で引けば,まず,”reconsider”という英語が出てくる.また「考え直す」という表現を引けば,同じ”reconsider”がほとんどの時点の第一定義となる.
“reconsider”は立派な英語で,もし,議会か何かで,ある計画を「再考してほしい」と思ったら,I believe you should reconsider the plan.と言えば,効果的な発言になり得る.
ところが,場面が変わって,たとえば,それまで求婚しても断られてきた相手に「考え直してほしい」と思うとき,I believe you should reconsider your decision.という硬い言葉でお願いしても,一層嫌われるようになるだけだろう.
人の気持ちの問題だから,もう少しやわらかい表現でないとおかしい.
まずは,なんといってもラテン系のreconsiderをやめて,I wish you’d think it over a little more.などと,いわば「人間くさい」熟語にすれば,たとえ相手の決心が変わらなくても,少なくとも、後でふりかえってみて自分の表現だけはまずくはなかったと思えるから,悔いなく次の相手を捜すことができる.
カンの鋭い人はわかったかもしれませんが、ここで著者が英語学習者に向けて訴えているのは、「熟語の大切さ」です。
中学生でも知っているgetやtakeといった動詞ほど無数の熟語が存在し、学習者はうんざりするものですが、ネイティブ・スピーカーから見れば、それは心のこもった「人間的な」言葉に聞こえるのです。
そのためにも、副詞の持つイメージを感じることが良い勉強になると著者は言います。この本ではthroughに多くのページを割いて説明していますが、一読の価値は大いにあります。
本当の意味で英語を理解したいなら、「行動や状態の様子を生き生きと伝えることができる」副詞から生まれる数々の熟語をしっかりと覚えるのは不可欠というメッセージを真正面から受け止めなくてはいけません。
前著『日本人の英語』について一言
前著『日本人の英語』はめでたくベストセラーとなり、私を含む多くのファンを生み出したのですが、そのタイトルについて著者自身は、意外にも「恥ずかしさ」や「困惑」を感じるといいます。
驚くべきことに、『日本人の英語』というタイトルを、アメリカ人である著者本人が「英語にできない」と言っているのです。なんとも興味深い話ではありませんか。
実に皮肉なことに,『日本人の英語』という題名は,なかなか英語にならない.『山の音』はThe Sound of the Mountainと,[定冠詞+”of”+単数形の名詞]で表現される.『巴里のアメリカ人』はAn American in Parisという[不定冠詞+”in”+単数形の名詞]の和訳である.『悪魔の詩』はThe Satanic Versesという[定冠詞+形容詞+複数形の名詞]の和訳である.『日本人の英語』は何というのであろう.
実は,日本語の「の」という助詞が表す「間柄」が曖昧すぎて「日本人の英語」とはいっても,簡潔で題名にふさわしいこれといった英語は思いつかない.もし,”The Sound of the Mountain”のように,”The English of the Japanese”にしてしまったら,まるで日本人は人間としてのバラエティーもなければ,その英語力も皆均一であるかのように聞こえるので,何としても避けたいのである.
この話題自体は前著『日本人の英語』でも取り上げられており(明治な大学―名詞+of+名詞の項)、「上野動物園のパンダ」を例にして、the pandas of Ueno Zoo、Ueno Zoo’s pands、Ueno Zoo pandsの3種類のニュアンスを説明しています。
そんな著者が、いや、そんな著者だからこそ、「日本人の英語」という抽象度の高い表現をどう英語で言えばいいか戸惑ってしまうわけです。
むしろ大して考えもせず、これでいいやと適当な仕事をする人だったらこんな苦労をしなくて済むのでしょうが、この著者は「日本語が嫌い」と日本語で叫ぶほどの人ですから、端から見ただけでは想像もつかない苦労をされているのでしょう。
このように、教えてくれる側の人間性のようなものが垣間見えると、その言葉一つ一つの重みのようなものが感じられ、もっと大事に噛みしめよう、とさえ思えてしまいます。
わざとらしくする必要はありませんが、私自身教える側にいる身としては、単に機械的に知識を提供するのではなく、むしろ生徒との心の距離感に気を配り、ときには自分の感情をさらけ出す必要性を痛感し、反省することもあります。
何にせよ、良い本です。
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